仙台藩の天文史

~ 天文家の人物伝 ~

遠藤盛俊 (えんどうもりとし) 寛文12年(1672)-享保19年(1734)


■プロフィール

遠藤盛俊(えんどうもりとし) 仙台藩天文家
 七左衛門と称し黄石、また一葉と号す。肯山公の命で幕府天文所渋川助左衛門に学び始め、業成るに及んで、天文方を命じられた。
 盛俊には「昼夜長短之図」「二十四気七十二候」(1709)、「天地儀解」(1714)などの著作があります。「七十二候」は二十四節気をさらに細かく分けたもので、春海が考案した季節区分です。昼夜長短之図は、二十四節気ごとの昼夜の長さの変化と、定時法、不定時法の関係を解り易く図にしたものです。
 遠藤は江志の弟子ですが、数学の免許を授かった形跡はありません。
 1721年には、入間川市十郎が渋川家の養父として迎えられるが、これは遠藤盛俊の強い後押しがあったためとされている。1726年に右門が死んだのち、市十郎が天文方を継いだ。しかし、市十郎も翌年41歳の若さでこの世を去ってしまい、この後、天文方渋川家は十一歳の六蔵が継ぐことになる。
 享保十七年十一月五日、冬至の日に奥州 牡鹿郡湊村熱田社住吉社、石巻村住吉社、門脇村鹿嶋御子社、岩井郡山ノ目村配志和社、
 羽州米沢菅天神社の相殿に鎮め祭る。配志和社には土御門泰邦卿の額が残されている。


■遠藤盛俊年表

 寛文12年(1672) 生まれる。
 宝永6年(1709) 「昼夜長短之図」「二十四気七十二候」を著す。
 正徳4年(1714) 「天地儀解」を著す。
         春海より暦学を伝授される。
         この頃、仙台暦裁判事件が起こる
         遊佐木斎に天文の話をする。
         仙台藩の天文者となる。
 正徳5年(1715) 渋川春海没する。
 正徳6年(1716) 「天地儀解」を著す(?)自序あり。
 享保2年(1717) 遊佐木斎「皇極内篇発微」
 享保5年(1720) 正月、土御門家の伝を受ける。
 享保12年(1727) 入間川・没(四十) 六蔵則休・天文方(十一)
         佐竹義根に書状を送る
 享保13年(1728) 戸板・遠藤に入門
 享保16年(1731) 戸板に天文御用を引き継ぐ
 享保17年(1732) 渋川春海の慰霊祭を行う
 享保19年(1734) 遠藤盛俊・没する。


■師弟関係

                 ┌─戸板保佑
                 │(1708-1784)
  江志知辰──┬──遠藤盛俊──┼─遠藤信近
  (1649-1714) │ (1672-1734)  │(1705-1741)
  渋川春海──┘        ├─入間川重恒
  (1639-1715)          │(1688-1727)
                 ├─佐竹義根
                 │(1689-1768)
                  ├─小泉周安
                 │(1689-1722)
                 └─高野兼良
                  (1708-1758)


■関連資料

エンドー・モリヒサ【遠藤衞久】天文家。初諱は盛俊、通称は小五郎後ち七左衞門、黄赤子また一葉軒と号す、綱村公の命により、天文學を幕臣渋川春海に學ぴ、業成りて天文方を勤む、享保十九年七月ニ十三日没す、享年六十六、仙臺新寺小路大徳寺に葬る。

●正徳四年二月六日
 於江府去月二十七日渋川図書殿邸に遠藤小五郎を公儀使同伴し小五郎に暦学伝授を託せらる旨演説する趣公儀使い言上の旨浅井隼人告達(治家記録)

●正徳四年二月七日
 渋川図書殿へ時服五領及父助左衛門殿へ羽二重織絹三疋遠藤小五郎暦学門人に託せらる謝礼各以便宜贈遣せらる(治家記録)

●(正徳四年)六月六日遠藤小五郎天文図象二器持参之。始見見之器象実開天体秘密。見日月五星羅計気學之象隠。至妙之事也。一図者。月之九道明白也。(木斎紀年録)

●(蘆東山)先生、(江志)彦惣に行かるる節には、セウデンといえる盲人今の町より通う ホウミヤウ院といえる山伏、ハンセウ院といえる山伏、金成太平学校の目付、岡部市左衛門、遠藤七左衛門にても彦惣の門人よきゆえに渋川六蔵(春海)殿へも遣わすなり。

●遠藤盛俊、七左衛門ト称し黄石、叉一葉ト号ス肯山公命シテ、幕府天文所渋川助左衛門二學ハシメ、業成ルニ及ヒ、天文方ヲ命ス、享保十九年七月二十三日没ス、年六十三、成就山大徳寺ニ葬ム、知方圓性居士ト云、

●三月より遠藤七左衛門先生へ天文の話にても聞度、又七曜暦其外書物にても借りて見申度存、往て知人に成る。富塚平太郎を以申入候。予が一生を苦しむるの始、此に有り。於呼是亦蓋天命也。八月比より七左衛門先生の門弟に成り、天文暦道の御用を末に勤めんと欲す。 春中より富塚平太、同平十郎、与九郎、佐竹伊兵衛、杼窪新之丞佐藤惣太夫抔にてしきりに雖進吾。不侫思うに七左衛門は何も不知馬鹿者也。算数は不知、天文は不埒成事多く、理に違たる事を云い、足立三十郎、青木理右衛門先生、杼窪新之丞先生、戸板長三郎、伊藤助之丞抔咄にも、若き時は原町御屋敷抔にて、ぶちふまれ不行跡者也。天文者に成て而も新之丞先生を江戸より追下し、理右衛門先生の天文暦術に達したることをそねみ、入間川市十郎を公儀の天文者に成し後、市十郎を以、理右衛門先生をどちめさせ、痛入たることども有レ之。先生之由数人咄しし事に候上、不肖が不審の事とも一事も不埒明程の事なれば、弟子に成し而も皆以不肖が自分に考出して、御用も勤候儀に候間、決不いやに存、色々辞退申候。

●(享保一三年一一月)同月二十一日冬至、遠藤七左衛門先生にて北辰を祭り、貞享暦御伝書多くを贈らる。得大恩如山如海。実雖有不徳既師之、則不可不敬也。不可不尊也。予が天文暦術を得る事は於呼非先生、則無窮極至也。又夫天也。又天也。(一代記)

●十一月六日、七左衛門先生より御前へ被相達に付、十二月八日出後藤孫之丞殿御宅御意之趣被仰御渡。自是御用にて稽古する也。(一代記)

●七月、紅毛時計之考七左衛門先生へ被仰付候処、合点無之候、重被申上候。其後高田定四郎方へ被迎付候。定四郎方へ来り、右時計相見、考書を七左衛門先生へ為見申には、能考に由って御前に上指上り候。御意有之委細は御用留之内に有之。(一代記)

●七月二十三日、七左衛門先生病死、年六十六歳、大徳寺に葬る。天文生知方円性居士と号す。(一代記)

エンドー・モりヒサ【遠藤衞久】天文家。初諱は盛俊、通称は小五郎後ち七左衞門、黄赤子また一葉軒と号す、綱村公の命により、天文學を幕臣渋川春海に學ぴ、業成りて天文方を勤む、享保十九年七月ニ十三日没す、享年六十六、仙臺新寺小路大徳寺に葬る。

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葛岡霊園

青葉区葛岡にある市立の霊園に大徳寺の墓地があります。
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大徳寺霊園

大徳寺に葬られた著名人の墓が並んでいます。
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遠藤盛俊の墓碑

遠藤盛俊の墓碑です。刻まれた文字が辛うじて判読できます。
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