仙台藩の天文史

仙台藩の古機器

 

■渾天儀【国重文、日本天文遺産】

渾天儀は中国からもたらされた天体観測機器です。水平、子午線、天の赤道を表す3つの固定された環と、ひとつの動く環、それに星の位置を狙い定める”玉衡”と呼ばれる棒からできています。この渾天儀は安永5年(1776)に戸板保佑の指導のもと、藤広則が作成た渾天儀ものです。全周を384等分した目盛りと、365.25に分けた目盛りの2種類が振られています。現存する渾天儀はほとんどが小型で、天体の運行を説明する程度のものです。従って、実際に観測に用いられたものは珍しく、大変貴重なものであり、平成24年に国の重要文化財に指定されました。

この渾天儀の水平環の裏面には、藤広則が仙台の工人たちに命じて渾天儀を作らせたことが記されています。この渾天儀は、鋳冶師・高田文九衛門延傳、鍍飾師・棚木六兵衛知見、露台(観測台)棟梁・朴沢庄蔵直好、大工匠小野彦總安在、山田直四郎吉直によって作られたとあります。
 鋳物師高田文九衛門は、高田定四郎の子孫に当たる人物と思われます。

 此渾天儀、藤広則使冶人新鋳之又使飾工刻其度分乃地平輪周一丈一尺弱天経赤道及四遊儀玉衡皆応於其尺寸而作之機巧尤精密矣自去年夏到于今年冬而儀制盡成焉 安永五年丙申十一月朔日多植茂蕃識之 渾儀鋳冶師高田文左衛門延傳鍍飾師棚木六兵衛知見露台棟梁朴澤庄蔵直好大工匠小野彦總安在山田直四郎吉直


■象限義【国重文、日本天文遺産】

 武田保勝が1852年頃に「新製象限儀」を使い北極星の高度を測定したという記録が、東北大学図書館所蔵の「北極高度考」に見つかっています。測定値の精度などから、おそらくこの機器が該当するものと思われます。この象限儀は1800年頃に伊能忠敬が測量に使っていたものとの類似性が指摘されています。現存する大型象限儀は少なく、伊能忠敬記念館に2つ、坂出市鎌田共済郷土博物館に1つ、それと、山口県で新たに見つかった木製の象限儀の5つしかありません。  坂出の久米通賢が使っていた象限儀は、メモリの振り方などが仙台や佐原にあるものとは違います。仙台と佐原のものは、多少の違いはありますが、兄弟のようによく似たメモリが振られています。


■天球儀(大)【国重文、日本天文遺産】

 戸板保佑が寛延3年(1750)の御前進講の際に使ったとしている文献もありますが、目盛りの特徴から天球儀(小)や渾天儀と同じころに作られたと思われます。何重にも重ねられた和紙を蜜蝋で固めています。


■天球儀(小)【国重文、日本天文遺産】

 小さい方の天球儀には、四つの安永年間の日付と観測値、黒い四本の線が引かれています。月の位置の観測値とその時の月の軌道が描かれていると推測しています。


■算木と算盤

 中西流の算術で、使われていたのがこの算木と算盤です。  江戸時代には、いろいろな道具が計算のために使われていましたが、そろばん以外には、今に伝わっていませんでした。算盤を広げると、かなりの大きさになることなども使われなくなった原因の一つなのかも知れません。  横は位取り、縦は未知数の次数を表しています。タバコの半分くらいの大きさの算木を、算盤上に置くことで方程式を表現することができます。赤がプラス、黒がマイナスの数字です。中西流の数学で用いられており、戸板保佑は、父にミズキの枝を算木の代わりに用いて、算術を学んだとあります。


算籌(さんちゅう)

 たばこよりも少し長いくらいのこの棒は、”算籌(さんちゅう)”と呼ばれ、計算を行うために用いました。
 象牙でつくられており、中国では周の時代(紀元前)から用いられていたといいます。実際にどのように使われていたのかは、残念ながら伝わっていません。本数で数を表現するほか、並べ方で数字を表現していたと考えられています。

真山迂堂の火鉢 個人蔵

 印刷に使われる板木を四枚使って、火鉢に仕立て上げた、非常に珍しい一品です。  使われている板木には、左のように、太陽系が描かれています。これは、仙台藩の幕末の儒学者・真山迂堂が、明治九年に著した『究理一端』の板木であることが解りました。  迂堂は、藩校である養賢堂で、儒学を教えていました。天球儀、地球儀を養賢堂に献上して以来は、”地球先生”と呼ばれていたとあります。  維新後は、角田で学校の教員となるが、毎月の給料として酒五斗を貰えないかと願い出て、これ以後、自らを五斗翁と号したといいます。

真山迂堂の火鉢(続き)

 ここに描かれている太陽系には、2つの代表的な彗星の軌道の他、土星に8つ、天王星に4つ、海王星には1つの衛星が書かれています。これらの衛星の内、天王星のエアリアル、アンブリエルは、共に1851年に発見されていますので、かなり最新の宇宙像が描かれているということになります。
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