仙台藩の天文史

~ 天文家の人物伝 ~

船山輔之(ふなやますけゆき) 元文三年(1738)-文化元年(1804)


■プロフィール
仙台藩天文家・和算家 天文方山路家暦官
 通称:喜左衛門 後に 喜一(喜市) 
 号 :国賢  佐清
 通称喜一、喜左衛門。大番士。中西流和算を戸板保佑に学ぶ。後に戸板と共に幕府暦官山路主住の門に入る。著書に絵本工夫錦絵がある。
 安永9年に江戸にでて山路家の暦官となる。
 初め善左衛門と称す。
 仙台諸士藩籍上によれば、船山家の禄は十貫一文とある。加美郡一関(色麻)、一之迫刈敷(志波姫)、三之迫石越(石越)などを知行地としていた。
 船山は戸板に師事した後、山路の弟子となり関流の数学を学びました。関東普請役として江戸に出て、山路と戸板の間を結ぶ重要な役割をしていたと考えられます。
 船山は安永四年に私済調暦を著しています。これは安永五年から二十二年間の暦で日食・月食の予報も計算されています。この頃天文方は、安永二、四年、天明六年に閏月の置き方を間違えています。私済調暦の中の7回の閏月のうち、天明六、寛政四、六年の閏月の計算が間違っています。寛政七年に藤広則が土御門泰栄に対し、天明六年の閏月に関する質問状を送っています。土御門家からの返答書には『近頃頒暦に所載の閏月に不審の儀奉伺候処去る子年(寛政四年)より古法に被相復候条其の旨可相心得由御命之趣難有奉承知候』とあります。渋川景佑によれば、朔の時刻より前に中気があった場合に間違いが生じており、漢文の翻訳ミスから生じたものであるとされています。
 仙台藩士辞典によれば、安永七年に「船山が山路の雇員になった」とあり、伊達世臣家譜では「寛政2年(1790年)、幕府天文官山路某に属し天文方手伝になる」とあります。安永七年は、山路徳風が養父の跡目を継いだ年であり、寛政ニ年は山路徳風が天文方に任命された年です。しかし、明治前日本数学史にある安永九年については何の年なのかは不明です。
「絵本工夫之錦」は子供向けの和算の本です。寛政七年に上下編が、寛政十年には、解答編である後編が出版されました。算題と子供の目を引くイラストが書かれていますが、当時の学者の間では、いたって不評であったとあります。 

フナヤマ・スケユキ【船山輔之】 天文家。通称喜左衞門また喜一、天文學を戸板善太郎保佑に學び、後ち保佑と共に幕府暦官山路主住の門に入りて其の蘊奥を極む、著に絵本工夫の錦前後篇三巻あり、この人蓋し前項の舟山喜市と同一人か。

フナヤマ・キイチ【舟山喜市】和算家。中西流算法は元祖毛利勘兵衞重能(慶長年間の人)より傳ヘて仙台藩士戸板善太郎(黄海)に至り、黄海より大番組舟山喜市に傳ふ。 フナヤマ・スケキヨ 【船山佐清】算學家。善左衞門と称す、戸板善太郎保佑の高弟にて関流、中西流算學の両傳を得たり。

フナヤマ・スケヒデ【船山左英】 天文家。字は伯美、圭山と号す、通称を左司馬と曰ふ、祖喜一、諱は輔之、安永九年天文學に通ずるを以て、辟されて幕府の暦官山路氏の属員となり、家を江戸に移す、父善左衞門、諱は佐清と称す、佐英天保四年十一月、暦作測量助役となり、十年四月蛮書和解書役に転じ、文久元年四月疾を以て職を辞す、慶應二年九月九日没す、享年五十三、仙台北八番丁江巌寺に葬る。(碑文)


■船山輔之年表

 元文 三年(1738) 生まれる。
 宝暦年間     三両を貰い、戸板に関流の数学を学ぶ
 宝暦 十年(1760) 冬至、戸板保佑、山路主住より、見題、隠題免許
 宝暦十二年(1762) 五月、戸板保佑の門人となる。稽古料三両を受ける。
 宝暦十三年(1763) 正月十一日、中西流の免許を授かる。
 明和年間     山路の門人となる。
 明和 四年(1767) ニ月、関東御普請方となる
 明和 四年(1767) 六月、江戸へ行く?
 明和 五年(1768) 六月朔日、戸板保佑より関流の免許(隠題・伏題)を受ける
 明和 六年(1769) 算法御用指南。
 明和 七年(1770) 十一月二八日、山路主住より関流の免許を受ける
 安永 元年(1772) 山路主住、没する。
 安永 三年(1774) 江戸から問題を送る。
 安永 四年(1775) 「私済調暦」を著す。
 安永 五年(1776) 冬、山路之徽より、別伝、印可、一子相伝の免許を受ける
 安永 六年(1777) 戸板保佑、山路之徽より、印可免許を受ける。
 安永 七年(1778) 山路之徽、没する。
 安永 七年(1778) 山路の雇員となる。(仙台藩士辞典)十貫一文(諸士藩籍)
 安永 七年(1778) 五月、日野多利之助、船山の門人となる。
 安永 九年(1780) 天文方の属となる。(明治前日本数学史)
 天明 元年(1781) 日野多利之助、関流の免許を受ける。
 天明 四年(1784) 戸板保佑、没する。
 寛政 ニ年(1790) 九月、山路才助天文方になる。船山は天文方手伝となる。
 寛政 三年(1791) 十二月幕府より官資五口を賜る。
 寛政 七年(1795) 一月作暦方および測量方手伝頭。
          「絵本工夫之錦」上下ニ巻を著す。  
   寛政 九年(1797) ニ月改暦のため京都に行く。幕府はその資金のため五十両を賜う。
          十二月江戸に帰る。白銀二十枚を賜る。
 寛政 十年(1798) 「絵本工夫之錦」後編
 文化 元年(1804) 幕府より、測量事務を免じられる。
          九月十二日歿。享年六七才。十月、左直測量方手伝。官資五口を賜る。


■船山佐直年表

船山佐直
 文化 元年(1804) 九月喜一没。
          十一月十二日、藩士船山右馬之助左直、測量方手伝。官資五口を賜る。
 文化 ニ年(1805) 四月家を継ぐ。
          六月住まいを江戸に移す。
 文化 八年(1811) 十月目を患い測量の御役御免。
 文化十一年(1814) 十月再び、暦作手伝いとなり官資5口を賜る。
 文政 六年(1823) 十二月長年の功績を称え、白銀2枚を賜る。
 文政十三年(1830) 九月、親類書。


■船山佐英 左司馬と称する。伯美、圭山と号する。

 文化十一年(1814) 五月、江戸で生まれる
 天保 四年(1833) 十一月 暦作測量助役
 天保 十年(1839) 四月 蛮書和解書役、給米三人口
 天保十三年(1842) 七月十五日、幕府より禄二人口を加増される
 天保十四年(1843) 暦作御用
 弘化 元年(1844) 海上砲術の蘭書翻訳により、幕府より銀子七枚を賜る。
 嘉永 ニ年(1849) 褒美を受ける
 嘉永 五年(1852) 褒美を受ける
 嘉永 七年(1854) 褒美を受ける
 安政 ニ年(1855) 褒美を受ける
 文久 元年(1861) 四月 病気のため、辞職。褒美を受ける
 文久 ニ年(1862) 仙台に帰る。
 慶応 ニ年(1866) 九月九日没する。享年五三才。


■師弟関係


 戸板保佑──┬─────>┌─日野多利之助
       ▽      |(保佑次男) 
 山路主住──┼─船山輔之─┴─船山左直───船山佐英
       |
 山路之徽──┤
       |
 山路徳風──┘


■関連資料
記事の写真

section title

記事の内容が入ります。このコメントはサンプルです。
記事の写真

section title

記事の内容が入ります。このコメントはサンプルです。
記事の写真

section title

記事の内容が入ります。このコメントはサンプルです。
inserted by FC2 system