仙台藩の天文史

~ 天文家の人物伝 ~

入間川重恒/渋川敬也 (いるまがわしげつね/しぶかわひろなり) 元禄元年(1688)-享保十二年(1727)


■プロフィール

入間川重恒(いるまがわしげつね) 仙台藩士・幕府天文方
元禄元年(1688)-享保12年(1727)
 
 入間川市十郎は遠藤盛俊の弟子で、仙台藩吉村公の微臣入間川利兵衛友之の子、通称市十郎重恒。諱は敬也(ひろなり)。春水、黄白と号した。
 天文学を遠藤盛俊に学び、後に幕府の司天官渋川右門敬尹に随従して天文の奥義を極め、台命により敬尹の嗣となり渋川図書敬也と称す。渋川氏の養子の許可がおりるや、獅山公大小刀および白銀二十枚、時服二領を賜う。黄白子、春水と号す。「天文日刻或問」・「春海先生実記」の著作がある。享保十二年三月二十九日に死す。享年四十才。また、年十九にして「元資要弁」を著す。
入間川の亡くなった日と年齢について、仙台人物大辞書では三月二十九日没、二十九才、天文方代々記では三月三十日没、四十才としている。
渋川家へ養子に入るときに年をごまかしたようである。


■入間川市十郎年表

元禄 元年(1688) 仙台藩微臣の次男として生まれる。
 正徳 元年(1711) 昔尹・天文方(28)
 正徳 五年(1715) 昔尹・没 春海・没(77)、右門・天文方(20)
 享保 元年(1716) 冬至,遠藤小五郎へ誓約条目を提出。
 享保 二年(1717) 遊佐木斎に会い、跡部光海よりの書を渡す
 享保 四年(1719) 「日刻或問」
          十二月、渋川家への養子願いを出す。
          「元資要弁」
 享保 五年(1720) 正月五日 渋川右門江戸藩邸を訪れる(入間川の養子の件についてのお礼)
          「天文正教論・理気辨」
 享保 六年(1721) 七月二十五日、芦東山と養子について議論する
          七月二十七日,渋川家への養子が正式に認められる。
          八月四日、入間川・養子となる(34)
 享保 九年(1724) 佐竹義根に書状を送る
 享保十一年(1726) 渋川右門敬尹・没(31) 敬也、天文方になる。
 享保十二年(1727) 入間川・没(40) 六蔵則休・天文方(11)


■師弟関係


 遠藤盛俊────入間川市十郎─────佐竹義根 
 (1672-1734) (渋川敬也:1688-1727) (1689-1767)


■仙台人物大辞書

シブカワ・ヒロナり【渋川敬也】 天文家。仙臺藩士人間川重恒、通称市十郎、天文學を遠藤衞久に学ぴ、後ち幕府の司天官渋川右門敬尹に随従して天文の奥儀を極め、台命に依て敬尹の嗣となり、渋川図書敬也と称す、黄白子、春水は其の別号なり、天文日刻或問の著あり、當時天文學の宗家として世に知らる、享保十二年三月廿九日没す、享年二十九。
 
 
参考資料 :
仙台郷土史研究復刊第20巻第2号 「東山集」余録 渋川敬也の死をめぐって(上)  青木千枝子 
仙台郷土史研究復刊第21巻第1号 「東山集」余録 渋川敬也の死をめぐって(下)  青木千枝子

渋川敬也の墓

渋川敬也の墓

渋川家の墓所である品川東海禅寺にある天文方九代目の渋川景佑の墓には、渋川敬也の名前も刻まれています。
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