仙台藩の天文史

~ 天文家の人物伝 ~

中塚利為(なかつかとしため) 宝暦4年(1754)-文化6年(1809)


■人物伝
中塚喜十郎利為(なかつかとしため) 仙台藩天文学者 宝暦四年(1754)-文化六年(1809)

中塚は、藤広則の高弟であり、戸板保佑の孫弟子にあたる。中塚に関する史料は、東藩史稿、仙台人物史など比較的多く残されており、その人物像を探ることのできる数少ない人物である。  「中塚利為、姓は源、喜十郎と称する。足軽喜右衛門利泰の次男である。」とあるが、仙台人名辞書の「早坂喜十郎」の項では「宮城郡大沢村大倉下田の人で、足軽の本田家の養子となった」という説もあります。小さな頃から頭が良く数学や星に興味を持っており、天明年間に6才年上の藤広則に天文暦作りを学び、寛政元年6月には番外士、寛政6年に大番士となっています。

嘗て司天台推歩の誤りを考正して上書す。(東藩野乗)
或日天文台に僅少なる異状ありて暦数の差異を生ずるを看破し、大いに天下の耳目 を驚かしたりと云う。(宮城郡誌)

嘗て京都司天台製暦に誤謬あるを発見し、京都に上りて司暦本家土御門卿と之を論じ、卿ついに喜十郎の意見に服す、是に於いて「天文日本一」の名当時に高し。(仙台人物史)

寛政7年に中塚の師である藤広則は、土御門泰栄に対して、天明6年の暦の閏月について質問状を送っている。これに対し土御門家は、5月15日付けで「寛政4年より、計算法が変わったのだ。」との書簡を送っている。当時使われていた宝暦歴は、以前の貞享暦を手直ししただけで、計算に必要な数値が不正確で誤りも多かった。何人かの天文学者も同様に閏月の置き方に誤りがあることを指摘していた。

 この頃の仙台藩の天文学者は戸板保佑の観測重視の流れを受け、盛んに観測も行っていた。現在、仙台市天文台に残されている渾天儀は安永5年(1776年)に藤広則によって作られたもので、これによる観測記録は「仙台実測志」他として残っている。藤広則の史料の中には暦の不備を指摘したとの記述が見つからない。従って、中塚は観測と計算により、天明6年の置閏法についての不備を見つけ、これを師である藤広則が土御門家に送ったのではないだろうか。また、仙台人物史に記載されている「京都に上りて・・」の一説は次に記す寛政の改暦のことだと考えられる。

寛政9年7月改暦の命を奉じ、京師に往き土御門氏に建言す、土御門氏尽く言う所を採用す。これに於いて其名大いに振るう 京都に上りて司暦本家土御門卿と之を論じ、卿ついに喜十郎の意見に服す、是に於いて「天文日本一」の名当時に高し 寛政の改暦は幕府天文方吉田・山路両家、京都土御門家に相談なく、高橋至時を天文方に抜擢して行われた。あわてた土御門家は、仙台より中塚喜十郎と遠藤右門を呼び寄せ改暦に備えた。しかし、土御門家には宝暦の改暦当時の古い観測機器しかなく、当時、土御門家や仙台藩、天文方山路、吉田両家で行われていた研究はチコ・ブラーエの宇宙観に基づいた古いものであった。  一方、高橋至時は間重富・麻田剛立と共に、長崎より取り寄せた書物を基に、ケプラーの楕円理論による暦法や、天体観測機器などを独自に研究しており、寛政の改暦にあたっても、最新の観測機器を製作し持ち込んでいる。  このように、天文方高橋家と仙台藩・土御門家・天文方山路家・吉田家の間には歴然とした実力の差があった。このため、土御門家や仙台藩はもちろんのこと、天文方である山路・吉田両家ですら改暦にはあまり関与することはできなかった。  また、土御門家は高橋至時に対し、観測機器を貸して欲しいと手紙を送っているが、至時はこれを断り、かわりに「暦書考成後編」(ケプラー理論の解説書)を送っている。このようなことから、寛政の改暦後すぐに仙台藩にもケプラー理論がもたらされたと考えられる。

   幕府天文方   山路徳風(小倉才助:仙台藩出身ヵ、37才)
   天文方手伝   船山輔之(仙台藩出身、60才)
   仙台藩天文学者 中塚喜十郎(44才)
           遠藤右門(年齢不詳)
           奥野清栄(25才)

日常の動作には、はなはだ奇妙なことが多く、破れた履き物を履き、くたびれた衣服を着ていても全く気にしなかった。人々に奇人と見られていた。(仙台人名辞書:早坂喜十郎) 非常に優れていて、自由に振る舞い、体裁を気にしない人物で、人々には奇人と見られていた。(仙台人名辞書:中塚喜十郎) 道で御一門やその他の貴族に逢えば、急に空を仰ぎ道のまん中をふさいでしまう。従者がとがめると「天体に異常があることを見つけたので、それを観測している。土下座をする暇が無い」という。貴族はやむを得ず道端を通り過ぎていく。(仙台人名辞書:中塚喜十郎) 性格は荒々しくわがままで酒を好み、狂ったふりをしては身分の高い人々をバカにしていた。ある日、公族の家に行き「僕は貧乏で、最近では味噌や醤油も無くなってしまった。お願いだから、味噌醤油を分けてください。」とお願いをした。公族は利為に味噌醤油を与えた。しかし利為は、これをまがい物だと捨て去った。利為のばかげた行為はおおむねこのようなものであったが、人々は利為の技量を惜しみ、役人もこれをとがめなっかった。(東藩史稿)  以上のように中塚は、奇人として見られていたようである。特に、身分の高いものに対して悪ふざけをしていた様子が伺える。仙台藩天文学者の身分は決して高いものではなく、禄も30石程度だった。

 

中塚喜十郎 諱は利爲、喜十郎と称す、藩の足軽なり、幼より星學を好み、贅を藤蒼海の門に執り、刻苦カ學悉く其傳を得たり、遂に芸業を以て賤隷より大番士に撰んじ、星官に補す、喜十郎卓犖(たくらく:並ぶものがない)不覊(ふき:自由奔放)、奇行甚だ多し、甞て(かつて)京都司天臺製暦に誤謬あるを嚢見し、京都に上りて司暦本家土御門卿と之を論じ、卿遂に喜十郎の意見に服す、是に於て『天文日本一』の名当時に高し、叉豪岸不屈頭を?門に屈するを屑とせず、途上御一門其他の貴族に逢ヘぼ則ち天を仰ぎて途の中央に立つ、従者之を咎む、日く天体に異象あるを発見したれば之を測度するなり、土下座するの暇なしと貴族已むを得ず路側を通行して過ぐ、文化六年四月二十五日没す、享年五十六、仙臺北八番丁高福寺(今廃寺)に葬る。(仙臺人物史)ハヤサカ・キジユーロー【早坂喜十郎】天文家。宮城那大澤村大倉下田の人、幼にして怜悧数學を好み、長じて藩の足軽本田家の養子となる、更に刻苦精励して数学を研究し、進みて天文推歩の術に精通して其の?奥を極む、遂に召されて大番士に列す、斯道に熱誠の余、日常の動作甚だ迂なるが如く、破履弊衣を以て意に介せず、世目するに奇人を以てす、或日天文臺に僅少なる異状ありて暦数の差異を生ずるを看破し、大に天下の耳眉を竃かしたりと云ふ、以上は宮城那誌の記述するところ天文家中塚喜十郎の伝記と混同せるものゝ如し、或は同一人にや。

ナカツカ・トシヒサ【中塚利古】 天文家。通称九左衞門、中塚喜十郎の嗣△利古の子は喜與治利位と云ひ、能く家業を襲ぐ。

参考史料とその出典  東藩史稿(中塚家譜、東藩野乗、仙台人物史)  仙台人名大辞書(仙台人物史、宮城郡誌)  近世日本天文学史


■中塚喜十郎年表

 宝暦四年(1754) 足軽喜右衛門利泰の次男として生まれる。姓は源、喜十郎と称する。
 天明年間(1781~1788) 藤広則に天文作暦を学び、学資として金1枚を賜る。28才~35才。
 寛政元年(1789) 六月、一両二分四人分として、番外士。36才。
 寛政六年(1794) 四月ニ日、出入司支配から大番士となる。41才。星官になる。
 寛政七年(1795) 土御門泰栄に天明6年の置閏法について質問状。42才。
 寛政九年(1797) 七月、改暦の命を受け、上京する。44才。奥野25才、遠藤?
 文化六年(1809) 四月二十五日死す。享年五十六才。仙台北九番町高福寺に葬る。


■師弟関係
 

藤広則──中塚喜十郎利為─┬─中塚利古───中塚利位
             │(九左衛門) (喜與治)
     佐々木遊斎──>├─鈴木儀右衛門(森)
     (関流:荒谷) │
             └─戸石理蔵



■関連資料

 
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