仙台藩の天文史

~ 天文家の人物伝 ~

大塚頼充(おおつかよりみつ) 享保17年(1732)-享和元年(1801)


■プロフィール

大塚頼充 (おおつかよりみつ) 仙台藩藩士
善右衛門と称し、春湖、東獄と号す。180石
大塚頼充は畠山敬之の次男として生まれますが、大塚頼弘の娘と結婚し大塚家を継ぎました。十九才で宗村公の小姓となっているほか、若いころから佐竹義根に天文暦術を学び二十九才で伝を受けるとあります。
寛政三年仙台坊主町龍賓寺の蔵書の管理人となりますが、藩士人の携出を許し、家で書物を読むことができるようにしました。今でいう図書館の司書に相当する仕事で、館外の貸し出しを許可したのでしょう。当時の学者はこれをたいへん喜んだといいます。
めとぎは萩の一種で、めと萩とも言います。めと萩からは、良質な筮竹が作られることから「めとぎ」は筮竹そのものを示す事もあるそうです。大塚頼充の記録の中にこの「めとぎ」が登場します。寛政6年の伝に「蓍(めとぎ)は磐井郡東山荘下折壁村の内亀沢に産する。これを京師(土御門家)に献上した所たいへん喜ばれ、合歓草との名前をもらった。以後、藩命で領内のめとぎの製作に当たる。」と記されています。たぶん、大塚は県内産のめとぎで作った筮竹を土御門家に献上したのでしょう。また、蟄居を許された後の芦東山とも親交があった。芦東山の日記によれば、大塚は実際に日食の推算を行っていたとあり、暦術にも精通していたことが伺われます。さて、大塚頼充の碑文の最後には、門人志村弘強謹誌と刻まれています。志村弘強は仙台藩の儒学者です。
大塚の父、畠中敬之(町奉行)、祖父の畠中従易(目付使番?300石)は、享保七年に遊佐木斎の神道門弟となっています。


■大塚頼充年表


 享保 七年(1722) 畠中敬之(父)、畠中従易(祖父)、遊佐木斎の神道門弟となる。
 享保十七年(1732) 十一月、畠中敬之の次男として生まれる。
 寛延 三年(1750) 八月(忠山)宗村公の小姓となる。十九才。
          若くして佐竹義根について天文暦術を学ぶ。
 宝暦 八年(1758) 高野兼良没。
 宝暦 十年(1760) 高野の天文暦術の統伝を受ける。二十九才。
          天文暦術、神道、兵法、占候、易ト、北辰三天九道秘訣、諸祈祝など。
 宝暦十三年(1763) 九月の日食を推算。
 明和 四年(1767) 閏九月二十八日、佐竹義根没。
 明和 六年(1769) 八月、メシエ彗星現われる。彗星の説(高野家記録)
 明和 七年(1770) 閏六月、孛星の説(高野家記録)
 安永 六年(1777) 志村東嶼、門人となる。
 寛政 三年(1791) 坊主町龍實寺の蔵書を藩士に貸し出す事を許し好評を得る。六十才。
          三月、徹山公、学資を給する。
 寛政 六年(1794) 土御門家に蓍を献上。領内の蓍を製作することを命ぜられる。六十三才。
 寛政十一年(1799) 五月、神道および天文暦術の奥義を小梁川貴矩に伝授する。六十八才。
 享和 元年(1801) 二月二十六日、没する。享年70才。七北田村山ノ寺洞雲寺に葬る。


■師弟関係
 

             ┌─大塚頼恒
             │
 佐竹義根─┬─大塚頼充─┼─小梁川貴矩
      │      │
土御門泰邦─┘      ├─沢木員昆
             │
             ├─志村弘強
             │(養賢堂副学頭:環海異聞)
             ├─佐藤信言
             │ 
             └─志村東嶼───桜田虎門


■基礎資料
 
記事の写真

大塚頼充の菩提寺 洞雲寺

泉バイパスから少し入ったところに洞雲寺があります。
記事の写真

大塚頼充の墓

洞雲寺には大塚頼充の墓が残されています。
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