~ 天文家の人物伝 ~
武田保勝は寛政九年に生まれ、嘉永六年五十七才で亡くなっている。 武田保勝は、和算資料も多く残しており、「算法側円全書」「側円解一名覚夢算法」等、楕円に関する研究が多く残されている。 碑文には天保十三年(1842年)京都の土御門家に出向いて、天保暦を伝授されたとある。また、功績を称え、品々をもらったとある。
寛政9年(1797) 生まれる。
文化後期 松木百合之助に数学(中西・関流)を学ぶ
文政4年(1821) 「暦日定規並賀子蔵否伝」を改正する
文政10年(1827) (以前?)推算貞享暦術書(一条坦編、武田保勝・千葉胤晴校:早大)
文政11年(1828) 南寛定の「題術遺編」の序文に伊藤兼里、早井、武田とある。
文政13年(1830) 『平方零約術付録』を著す。
天保元年(1830) 天文方稽古人になる。
天保8年(1837) 斎藤勝明、入門。
「新暦交食規範」を著す。
天保9年(1838) 門人が虚空蔵堂に算額を奉納。42才。伊藤隷尾 小西安貞 佐藤重行
天保11年(1840) 天文暦術の練達により賞され、番外士(乱舞)より大番組に進む。
天文方御用となり、学資を賜る。
天保12年(1841) 8月末、長谷川弘閲/山本賀前編「算法助術」の序文を書く
天保13年(1842) 天保の改暦にあたり、京都の土御門家へ。46才。
天保14年(1843) 京都より戻る。47才。
「太陰出入方位略」
弘化3年(1846) 「覚夢算法」を著す。
嘉永2年(1849) 4月、土御門家より暦法を伝授される。
「嘉永3年晴雨考」を著す。掌天学士。53才
嘉永4年(1851) 「嘉永5年晴雨考」を著す。54才。
嘉永5年(1852) 象限儀を使い仙台の緯度経度を測る。
「仙台北極高度考」「嘉永6年晴雨考」を著す。56才。
嘉永6年(1853) 9月4日死す。享年57才。仙台通町東昌寺に葬る。
┌─村田明哲
│(1816-1878)
├─古山利貞
│
├─伊藤隷尾
│ (1812-明治6~23年)
秋保盛弁─┬─武田司馬──┼─志村恒憲(1823-1898)
│ (1797-1853) │
松木清直─┘ ├─高橋元貞(1821-1870)
(1777-1827) │
├─佐藤久馬長脩
│ (関流)明治5年の日食を推算
├─斎藤勝明
│ (1813‐1894)
├─黒須祐吾(関流)
│安政2年(1855)2月1日算取り役
│黒須利庸か?(弘化三年側円解)
├─市川剛三郎(一関)
│
├─藤田安右衛門豊成
│
├─小西清三郎安貞
│
├─佐藤留右衛門重行
│
├─遠藤
│
├─皆川
│
├─菊池
│
├─熊谷
│
├─生江
│源範:松島小学校教員?
│宇左衛門:三百人町小学校教員?
├─猪俣
│
├─佐藤(久馬?重行?)
│
├─村田(明哲?)
│
├─壱岐
│
├─曽根
│
├─大河原
│
├─内田
│
├─大内
│
└─南舘
タケタ・シバ【武田司馬】天文家。諱は保勝、天文暦道を秋保盛弁に、算数を松木清直に學ぴ、並に其の蘊奥を極む、天保十三年改暦の際慶邦公の命を奉じて京師に上り、土御門家に就て新暦法の傳を請ふ、故に同家に留まること一年、日夜勉励措かず、盡く傳法を得たり、同家大に其の功を賞し帰國の時測量垂揺球一基及び一絃琴を賜ふ、司馬帰りて之を公に献じ、永く伊達家天文局の備となす、天文局に新製の測器設置に際し、司馬親ら仙臺北極高度西経仙臺距経度を測定し、以て将来諸測の根拠となす、即ち左の如し
武田保勝測量
仙台北極出地高度 三十八度一十六分
四十六秒小余九二
同 西京距経度束 五度三十六分五十七秒小余六
嘉永六年九月四日没す、享年五十七、仙台通町東昌寺に葬る。(碑文)【仙台人名大辞書】