~ 建造まで ~
■開成丸年表
嘉永七年/安政元年(一八五四)
五月 浦賀奉行所の洋式帆船・鳳凰丸竣工
七月 九日、日本惣船印(日の丸)が決まる
八月 三浦乾也、長崎で造船術、航海術等を学び同年帰郷
十月頃、日新丸・天開丸を完成か
十一月 四日、安政東海地震。ロシアのプチャーチンらの乗るディアナ号、下田で津波に遭い大破
安政二年(一八五五)
三月 十日、豆州君澤郡戸田村でプチャーチンらの指導により西洋船ヘダ号完成
廿二日、プチャーチン帰国
四月 七日、日新丸・天開丸、閖上でお披露目か
八日、奉行芝多氏出入司熊谷氏笠原氏養賢堂学頭大槻習斎大銃及び軍艦制造用係を拝命
廿日、藩主が閖上で水軍船調練を観る
廿五日、アメリカ船が石巻に現れる
六月頃、日新丸・天開丸、領内で調練
十二月 この頃迄にヘダ号の同型艦(君澤型)六隻完成
冬 小野寺鳳谷、気仙沼の大工太七、岡千仭ら豆州君澤郡戸田村で造船を見学
この頃、小野寺、江戸に戻り姫路藩の儒者・菅野白華に会い、三浦を紹介される
安政三年(一八五六)
正月 この頃、造艦のため三浦を招聘。和算家・守屋豊治、佐藤良之進、佐伯彦三郎、砂沢安治が三浦に従事
七日、小野寺と三浦、塩釜に移り住む
廿八日、造艦の命。三浦、惣棟梁・作事奉行格となる
嘉永六年、浦賀にペリーが来航。その後、幕府は大船建造の禁止令を解き、各地で西洋船建造が始まりました。翌年、長崎ではオランダの医師ファン・デン・ブルークが伝えた造船などの技術を三浦健也が学んでいます。仙台藩でも、洋式船の試作と調練が行われていました。
三浦乾也は、姫路藩の儒者・菅野白華の推薦で仙台藩に造船技術者として招かれます。また、仙台藩の洋船建造プロジェクトのリーダーである小野寺鳳谷は、安政二年に豆州・相州に建造中の洋式船を見に行きます。
安政三年一月二十八日、洋式船建造の令が下され、後に開成丸と命名される船の建造が始まります。
早稲田大学図書館所蔵の『大槻習斎洋艇建造書類』には、開成丸の建造に至るまでの経緯が記されています。
・「大槻習斎洋艇建造書類」 早稲田大学図書館古典籍総合データベース
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_a0231/index.html
・「開成丸下海図」 東京国立博物館 研究情報アーカイブス(https://webarchives.tnm.jp/)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0008662